浅草公園町会の歴史

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寄稿:第8代町会長 熊澤永行氏

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浅草公園の誕生

浅草公園町会のある地域は、浅草寺の境内地内にある為、一般とはかなり​異色な点がある。明治6年、明治政府により浅草寺境内地は公園と指定され、南は雷門通り、東は馬道通り、北は言問通り、西は国際通りに囲まれた広大な地域のため、行政はこの地域内を1~7の区画として整理し、夫々(それぞれ)に7つの町会組織ができあがった。

六区興行街の賑わい

6区は、元々浅草寺周囲の西側に合った火除けの空き地と北側の奥山と言われた地域であったが、観音様の人気で参詣人が押し寄せ、それを当て込んだ出店や見世物小屋が建込み風紀が乱れた為、西側に空き地を掘り火除けの池として(後のひょうたん池)その池の西側の土地にこれらの小屋や出店を移動させた地域でもあった。従って以来、浅草寺と三社様(浅草神社)も町会員である。しかし、ここが日本中から参詣人、娯楽を求める見物人、賑わいを楽しむ観光客が押し寄せ、地域の防犯・防火に町会としても大活躍の時代であった。

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昭和初期の浅草公園

昭和に入り、大東亜戦争の勃発とともに防空、防火等の活動に町会員も尽力、出動を繰り返したが、昭和20年3月の東京大空襲の為に、この地域一帯全焼失となり、主として戦後の記録しか残存していない。終戦後、朝鮮戦争等の影響により景気の回復を迎えると、町会内の六区興行街には大正・昭和初期の伝統の下に30以上の劇場や興行場が復活し、娯楽に飢え苦しい生活に耐えてきた人々が押し寄せ大変な活況を呈した。

写真は昭和26年(1951年)頃のひょうたん池と交番。(東京楽天地80年史より)

昭和から現在へ

しかし、1964年、高度成長の内で迎えた東京オリンピックの熱気がカラーテレビや家庭電器の普及、娯楽の多様化に進み、オリンピック終了後のころから興行街の人波が去り、町会の経済基盤の衰えが会員の生活基盤にも影響し、一部の風紀も悪化していき、中央競馬会の馬券売り場ビルが唯一の集客力となる時期もありました。やがて、レトロブームにより浅草に人が戻り始め、浅草寺の参詣客の増加、浅草伝統の各行事の復活、新しい行事の誕生、ROXやビューホテルの進出、町内の美化活動、防犯活動、各会員の努力や近隣町会との協力等により、更には六区興行街の再生、つくばエキスプレスの開通、六区の地区計画の成立による近代化、更に町会内の6商店街(花やしき通り、西参道商店街、奥山おまいりまち、六区通り、六区花道商店街、六区ブロードウェイ)等の活動も加わって、過去の盛況に近づきつつあります。

​写真は昭和40年(1964年)頃の浅草宝塚劇場前。(東京楽天地80年史より)

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